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読む雑談~自業自得の暴飲暴食動詞~
トンボはいつから「トンボ」と呼ばれていたのだろうか? 「トンボ」には比較的新しいコトバであるような印象があったが、調べると、そうでもなさそうだ。
トンボの古形に「トンバウ」が平安時代からあったと聞くが、ネット検索では、具体的なものは室町時代の国語辞書『下学集』からしか確認できなかった。だが、これでも西洋言語に比べれば相当に古い。スウェーデンの博物学者にして「分類学の父」カール・フォン・リンネ(1707—1778)はトンボの総称を考案するにあたり、ラテン語のリーベッラlībella(水準器)からlībellulaというコトバを生み出した(1758年頃)。現在、トンボに関してこの系統の語libellule(仏)[i]、libelle(独)、libellula(伊)、libélula(葡、西)などが用いられている。
では、lībellulaというコトバが生まれる以前はどうなっていたのだろうか? ポルトガル語のことになるが、フランス国立図書館の公開している日葡辞書Vocabulario da lingoa de Iapam(1603年)を覗くと、蝿(Fai. Moscas)、虻(Abu. Abespa, ou abespão)、イナゴ(Inago. Gafanhotos)といった虫の名前に対しては具体的な訳語が存在する。対して「トンバウ」の項目は存在するが、これについては夏に飛ぶ虫(Tonbǒ. Hum certo bicho que voa no estio)との説明のみで、具体名はない。もちろん断言できないが、当時のポルトガル語には適当な名称がなかったのではあるまいか。対して、この時代に「トンバウ」という日本語は確かに存在していたのだ。
一方、『岩波古語辞典<補訂版>』[ii]の「とんばう【蜻蛉】」の項に<古今集序注>から興味深い文が引用されている(見出し語:とんばう【蜻蛉】を——とする)。
「此の国の形——に似たり。故に此の虫の形になぞらへて,蜻蛉国と云へり。蜻蛉とは東方といふ虫也。此の虫は,あづまの方より出で来る故に,東方と云ふなり」
わが国を虫に例えるとその虫が東から現れることになるのか——などとは考えまい。いつの時代に書かれた注かは謎であるが、「東方」というからには音はトンバウでなく「トウハウ」ではないのか。
同辞書の見出し語には「とうばう」というのもあった。この項には「居よ居よ——よ」(トンボさん、ゆかないでね)に始まる<梁塵秘抄438>の用例が引用されている(1180年頃)。さらに、「かげろふ」の項にも、「——とは黒きとうばうの小さきやうなるものの…ほのめくなり」<和歌童蒙抄 九>とある(1145年頃か)。
改めて注の「蜻蛉とは東方といふ・・・」を考えてみる。もしも、東方というコトバがトンボの古形の音を漢語の音で写し取ったもので、それがもっと古い時代、隋唐かそれ以前の漢語の音で行われたなら、と妄想してみよう。重たい『学研漢和大辞典』[iii]を引っ張り出して古代中国の読み方を確認すると、東tuŋ、方pɪaŋとあった。素朴につなげればトゥンピャンのようになろう。これは現在の「トンボ」という語が文献で確認できるより前の姿を反映しているかもしれない。
そんなことを考えるのも、岩波新書『日本語の起源<新版>』[iv]をぱらぱら見ていたら巻末の日本語とタミル語対応語一覧にトンボが挙がっているのに気づいてしまったからだ。本当は言語の音は時代につれ変わるので、大切なのは関係の疑われる異言語間の音の類似ではなく規則的な対応であって、単語一例を考えても意味がないのだけれど、気にせず、トンボという意味を持ち、音も似ている遠い異国のコトバを見てみよう。
例えば、タミル語についてウィクショナリー英語版を調べると確かにそれらしきものがあって[v]、大雑把にカナ表記させていただけば「トゥンビ」とあった。これはトゥンビ(テルグ語、カンナダ語)、トゥンピ(マラヤラム語)と同根だという旨も記載されている。いずれも南インドの言語である。古語を持ち出すまでもなく素朴にトンボに似ていると思う。日本語の「トンバウ」と関係があるかは不明だが、しかしまた、これらの音は東方(トゥンピャン)の末尾を除いたものともよく一致している。
[i] 次の仏語辞書によればlibelluleの文献初出は1792年。Nouveau Petit Robert Dictionnaire de la Langue Francaise, Paris, 1993
[ii] 『岩波 古語辞典 補訂版』(岩波書店、大野晋他編、1990年)
[iii] 『学研漢和大字典』(学習研究社、藤堂明保編、1978年)
[iv] 『日本語の起源 新版』 (岩波新書、大野晋著、1994年)
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