方言ネイティブの雑記

進学のために上京してはや数十年、幼少期から高校生時代までを過ごした九州地方の方言がふだん口に出ることはほとんどない。だが佐世保に住む両親とビデオ通話でつながるとすぐに方言モードに切り替わる。子どもの頃に身についたことはやはりそう簡単には忘れないものだ。

学校の夏休み中に娘たちを連れて実家に帰省すると、東京育ちの彼女たちも数日で佐世保弁っぽい話し方になってくる。訛りのある祖父母たちとコミュニケーションを取るにはその方が波長を合わせやすいのだろう。
昨年の夏もそんな感じの帰省を終え、まだその記憶も新しい頃に、娘のひとりと「ちょっと佐世保弁でしゃべってみよう」という流れになった。まず私が適当に思いついたことを佐世保弁で話す。それに対し「えーと…」と考え込み、すぐには返せない娘。どうやら聞いた言葉をいったん頭の中で標準語に変換していたらしい。まるで英会話において英語脳になれず、聞いたことを頭の中で日本語に置き換えるように(…いや、そこまで違わないはずだが)。
やがて返してきた言葉を私なりに「そうじゃなくて、こう」と直しつつ助詞の意味や使い方を説明しようとすると、自ずと文を小さい単位に分割することになり、無意識に話していた方言に法則性らしきものが見えてきて面白い。

「今日プリントば出すごと、先生の言わっさんやった?」
「先生の待っとらすけん、はよう持っていかんばたい」

標準語に直すと
「今日プリントを出すようにって、先生が言ってなかった?」
「先生が待っている(いらっしゃる)から、早く持って行かないとね」
といったところか。

今回改めて認識したのは「~らす」の使い方だ。佐世保弁の例を出せと言われたとしたらすぐにこれを思いつくし、実際よく使われていると思う。
「~らす」はその会話の場にいない第三者の行為を表す。例えば
「何ば しよると?」
は、「(あなたは)何をしているの?」と相手に直接尋ねるときの言い方だが、
「何ば しよらすと?」
とすると、「○○さんは何をしているの?」のように第三者について話し相手に聞きたいときに使える。
地域にもよるらしいが、私の感覚では「~らす」には敬意が込められていると思う。でも「~していらっしゃる」というほど堅苦しくはない。たとえば駅で友達を見かけたことを伝えるなら「駅に○○ちゃんのおったよ」または「駅に○○ちゃんのおらしたよ」となるが、「おった」より「おらした」の方がやや丁寧な印象だ。友達ではなく学校の先生であればなおさら「駅に○○先生のおらしたよ」の方がしっくりくる。

ちなみに先ほどの例文にある「言わっさんやった?」は、自分以外の人が「言う」ことを表す「言わす」が否定形に活用したものだ。同様の表現で「来らす」もある(例:先生の来らした)。これらも「~らす」とニュアンスが近く、他人の行為を少し丁寧に表している。

もうひとつ、長らく離れていてもすぐに頭に浮かぶ方言といえば「こがん・そがん・あがん・どがん」という“こそあど”言葉だ。「こがん」であれば「こんな、このように」の意味で使う。
学生時代、関東出身の友人が私の帰省にあわせて佐世保に遊びに来てくれたことがあった。彼女と飲食店で食事中、どこからか
「どがんして食べると?」
という幼い子供の声が聞こえてきた。何を食べようとしていたのかは分からないがおそらくその子にとって初めての食べ物を前にして、お母さんに「これどうやって食べるの?」と尋ねていたのだと思う。それを聞いた友人が思わず「あんな小さい子が佐世保弁しゃべっている!」と言ったのを、そりゃそうだ~と笑いつつも、彼女が思わずそんな反応をした気持ちも分からなくはない。

思い返せば上京したばかりの頃は、会話でうっかり方言を出さないようにと神経を使っていた。一種の田舎出身コンプレックスがあったのだと思う。今となってはむしろ「方言があるっていいなあ」と娘たちに言われて悪い気はしない。方言が話せるといっても日本語の域は出ないし、英語や中国語を話せるのとはわけが違う。それでも何らかの言葉が「わかる・話せる」ということは単純に面白い。
そしてそれが自分の置かれた環境によって自然に身についたことを思うと、今さらながら人と土地のめぐり合わせの不思議というかありがたみというか、何とも言えない感慨を覚える。

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