chef de missionは料理長?

2021年夏、東京オリンピック・パラリンピックが開催されました。
緊急事態宣言下、自国で開催されているという実感もないままにオリンピック関連のニュースを眺めていると、ある記事が目に留まりました。
「イギリス代表選手が東京オリンピックの札幌の宿泊施設での食事を『刑務所のようだ』と批判した」というものです。
そしてこの発言に対するイギリス代表側の反応が日本で物議を醸していました。
どういうことなのか気になり、英語のニュースサイトの元の記事を確認してみたところ、日本での解釈に誤解があることがわかりました。

日本でのニュースは英語の記事を引用したもので、イギリス代表選手のSNSでの投稿と、それに対するイギリス代表のchef de missionのマーク・イングランド氏の発言が元になっていました。
一連の流れは以下のとおりです。

イギリス代表選手:札幌の宿泊施設での食事に対する不満をSNSに投稿。

イギリス代表のchef de missionのマーク・イングランド氏:BBC Radio 5 Liveで”I’ve just picked that up, I’ll be raising that at the chefs meeting tomorrow”と述べる。

日本のニュースサイト:「イギリス代表の担当シェフであるマーク・イングランド氏は『残念に思う。我々もこの話を耳にしたばかりで、これから会議で話し合うところだ』と述べた」と報じる。

ニュースを見た日本人:「イギリス代表の担当シェフであるマーク・イングランド氏ってどういう立場の人?」「担当シェフということはイギリス側が用意した食事で、そのシェフの責任なのにどうして他人事?」「食事が残念で有名な国の人たちに文句を言われたくない」などと過剰に反応する。

日本人の中には、「選手の皆さんは、行動が制限されている中でも選手村での食事やサービスを楽しんでいると聞いていたのになぜ?」という気持ちがあったようです。

ここで、フランス語に理解がある人はピンとくるかもしれません。
chef de missionは、シェフ (料理長)のことではありません。
つまり、マーク・イングランド氏は料理長ではありません。

chef de missionはフランス語で、組織の代表や責任者のことを意味します。
オリンピックではその国の選手団長を指します。
日本のニュースサイトが英語の記事を引用した際に、イギリスの選手団長の肩書であるchef de missionを「担当シェフ」と翻訳し、情報が誤った状態で伝わってしまったことが騒動の発端のようでした。
マーク・イングランド氏の発言が、いわゆる「シェフ」ではなく選手団長としてのものであったとわかれば、日本での反応も違っていたかもしれません。

日本では、シェフと言えば「ウィ、シェフ!」というテレビで見たようなイメージが強く、多くの人が「厨房で長い帽子をかぶって指揮をする人」を連想するのではないでしょうか。
chefの意味をあらためて掘り下げてみます。
語源は「頭(かしら)」を意味するラテン語のcaput。
日本語、英語、フランス語でそれぞれ解釈が異なります。

  • 日本語:シェフ = 厨房で料理人を統括する料理長。
  • 英語:料理人、調理師。
  • フランス語:長、リーダー、責任者の意味。chef単独では料理長の意味にはならず、料理長 はchef de cuisineです。

オリンピック憲章によると、オリンピックの公用語はフランス語と英語です。
オリンピックでは、「近代オリンピックの父」と呼ばれるフランス人のPierre de Coubertin(ピエール・ド・クーベルタン)に敬意を表して、彼の母国語であるフランス語が第1公用語として使われています。

フランス語が第1公用語なのだとしても、英語の記事の中で選手団長がchef de missionとフランス語で表記されているのはなぜなのでしょうか。
他の肩書もフランス語なのか疑問に思い、再びオリンピック憲章を見てみたところ、「chef de mission(選手団長)」と「attaché(アタッシェ / 連絡員)」などはフランス語が使われていることがわかりました。
ところが、いくら調べても理由まではわかりません。
思いきって国際オリンピック委員会(IOC)に問い合わせてみることにしました。

「どうしてchef de missionだけフランス語のままなのですか」という小学生のような質問を送って1週間、ついに回答がきました。
IOCによると、「特に明確な理由はないようだが、かなり昔からchef de missionという用語が使われており、調べた限りでは1948年、1951年の公式の印刷物に登場している」とのことで、参考までに、chef de missionという記載がある、選手団長向けの当時のハンドブックのアーカイブのURLが送られてきました。
IOCで調べても慣例的なものであるとしかわからなかったことに少し拍子抜けしてしまいましたが、ここまで調べてみて、夏休みの自由研究を終わらせたような達成感がありました。

さて、冒頭の札幌の宿泊施設の食事の問題については、結局イギリス側と日本側のどちらが手配したものか、という情報はわからずじまいです。
今回のニュースでは、たった一ヶ所の翻訳が誤っていたことが必要のない議論を巻き起こし、そちらに論点が移ってしまっていました。
伝え聞いた不明確な情報に惑わされず、情報源を確認することの重要性を実感する出来事でした。

さらに、翻訳を扱う編集者としても考えさせられることがありました。

日本には多くのカタカナ外来語が存在しますが、本来の意味とは違った解釈で定着しているものも少なくありません。
そのため、背景を理解していないと、今回のように、思い込みでchef = シェフ = 料理長、という誤った解釈になってしまう危険性があります。

また、近年は機械翻訳の精度が上がり、誰でも気軽にオンラインで翻訳ができるようになりました。
Google 翻訳でも2016年11月にニューラル機械翻訳を採用したことが発表され、翻訳の品質が大きく向上しています。
しかし、複数の意味がある単語に対してその文脈上では不適切な訳があたることもあり、特にニューラル翻訳では、一見自然な文章になるために誤訳であることに気が付かない可能性もあります。
機械翻訳は、個人レベルで概要を把握するためには大いに役に立ちますが、世の中に発信・公開する文章であればなおさら、機械翻訳だけに頼るのではなく、文脈や背景を考慮に入れ、辻褄が合わないものは精査しなければなりません。
文書の種類や分野によっては、まだまだ人間の介在が必要だと思われます。

私たちの仕事でも機械翻訳を活用しています。(イデア・インスティテュートの機械翻訳サービスはこちら
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