『JR上野駅公園口』(柳美里著、2014年)を読んでみた。この本に興味を持ったきっかけは、2020年にアメリカで英訳本(‟Tokyo Ueno Station”)がNational Book Award for Translated Literatureを受賞したからである。2014年に発売されていた同書は、Morgan Giles氏により英訳され同賞を受賞したことで、日本でも改めて注目を集めた。
同小説は、故郷の福島県に妻子を置き東京に出稼ぎにきたが、定職にはつけず、上野公園でホームレスとして過ごすことを選んだ主人公カズの生涯、その家族や仲間の生き様を描いている。主人公の他、物知りのシゲちゃんや少しつっけんどんな老女たちホームレスの日々の苦労が哀愁を帯びつつユーモラスに紹介される一方で、公園を行きかうサラリーマンや女性たちの楽天的な世間話、皇族の華やかな来訪等が対照的に描写されている。この小説で興味深かった点について、アメリカで評価された理由とともに考えてみたい。
一、上野公園と西郷隆盛像
私は関東出身ではないため、東京というと高層ビルが立ち並ぶイメージしかなかったが、初めて上野公園に行った時、青々とした木々、蓮の葉が浮かぶ不忍池、パンダがいる動物園、美しい近代建築の博物館や美術館に驚き魅了された。上野公園というと西郷隆盛像も有名であるが、その描写が面白かった。前述のホームレス仲間のシゲちゃんが次のように回想する。「西郷隆盛の銅像はですね、当初は、皇居外苑広場に設置されるはずだったのですが、西南戦争で官軍に弓引いた逆賊の銅像を皇居の近くに設置するのはいかがなものかという意見があってですね、ここ、上野公園に落ち着いたということです。服装も陸軍大将の軍服から、今の着流し姿に変更されました。」
私は鹿児島でも西郷隆盛像を見たことがあるが、威風堂々とした軍服姿で丘の上に建てられていた。次に上野公園の西郷さんに会いに行くときは、何となく悲しそうで居心地が悪そうな表情に見えるかもしれない。
二、ホームレスの描写
以前上野公園ではホームレス約600人がブルーシートを貼り暮らすテント村があった。そして、皇族が上野公園の施設を訪問するとき、それらを一掃する清掃があり「山狩り」(英訳では“chasing out the quarry”)と呼ばれていた。実は、現代アメリカではホームレス人口は58万人を超えると言われている(注1)。日本でのホームレスは約5,000人とも言われるが、その差はかなり大きい。また、子供をつれた家族がホームレスになること、有色人種や退役軍人の割合が多いこと等により、2020年大統領選挙で民主・共和党両陣営がその解決策に言及するほどの社会問題となっている。この小説で取り上げられる日本のホームレスの暮らしも、自国の問題を憂慮するアメリカ人のこころを揺さぶったのだろう。
三、日本人の思想について
この小説全体を印象付けているのが、カズと日本の皇室との対比である。カズは1933年に明仁上皇と同じ日に生まれた。そして21歳で早世する長男の浩一も今上天皇と同じ1960年に生まれた。ホームレスとなってからは「山狩り」のたびに自分の家であるテントの移動を余儀なくされる。英語ではEmperor systemと訳される日本の天皇制は、大統領制をとるアメリカと比べると特異に映る。キリスト教をはじめとする宗教を自らのアイデンティティーと考える欧米と、尋ねられれば「無宗教」と答える一方で神社や寺社に初詣に行き、結婚式は教会で行い、葬式では仏教形式を取る日本人の風俗は、随分と違う。天皇制もそんな複雑な日本人のアイデンティティーの表れとして、アメリカ文化にとって好奇な存在に映り、注目を集める一助になっているように思う。
おわりに
著者の柳氏はこの小説執筆のために、公園のホームレスの方々や東日本大震災での原発事故で警戒区域に指定された福島県南相馬市の仮設住宅の住人に取材を行っている。そのため、実在の人物ではないが、カズやその仲間の上野公園での生活や心情の移り変わりなどには、ルポルタージュとしての臨場感も加味されている。
公園などで暮らすホームレス以外にも、現実に目を転じれば、インターネットカフェや漫画喫茶で寝泊りするネットカフェ難民といった貧困層が存在する。一方、LGBTをはじめとする性的マイノリティへの対応や在日外国人に対するヘイトスピーチ等々、日本には解決すべき人権問題も依然として残っている。柳氏自身も在日韓国人という境遇の下で育ち様々な差別を受けてきたことが、社会的弱者にスポットライトを当てたこの小説執筆の一つの背景になっていると思われる。
約半世紀ぶりのオリンピック開催は、東京の「光」を象徴する出来事として日本中で歓喜されたが、その「陰」にはホームレスを一掃した見栄えのよい街づくりといった動きが存在していたように思う。次に上野公園に行った時、違った視点からその光景を眺められそうだなと思った。
<参考>
『JR上野駅公園口』(柳美里著、2014年3月出版、河出書房新社)
“TOKYO UENO STATION” Miri Yu/ Morgan Giles, Tilted Axis Press, 2019
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