ゴンザの露和辞典

18世紀中頃のロシアに、史上初となるロシア語・日本語辞典(露和辞典)を編纂した日本人漂流民がいました。彼の名はゴンザ。ゴンザの波乱に満ちた生涯と、彼が作り上げた『新スラヴ・日本語辞典』の特徴について紹介したいと思います。

ゴンザの人生

ゴンザは18世紀前半の薩摩に生まれました。正確な出身地は分かっていませんが、一説によれば、現在の鹿児島県いちき串木野市の羽島地区と言われています。

参考:鹿児島県いちき串木野市羽島 Google Map より

1728年、11歳のゴンザは、船頭の父親に連れられて商船「若潮丸」に乗ります。船は大阪を目指して出帆。しかし途中で嵐に遭遇し、7か月もの間大洋をさまよいます。たどり着いた先はカムチャツカ半島の南端。乗っていた17人はコサック集団に襲撃され、ふたりを除いて惨殺されてしまいます。生き延びたふたりのうちのひとりがゴンザ、もうひとりが年輩の商人ソウザでした。

ふたりは現地の役人に保護され、4年かけてシベリアを西へ西へと移動します。長旅の末、1733年に首府サンクトペテルブルクにたどり着きました。ふたりは同地の迎賓館に迎えられ、時の女帝 アンナ・ヨアノヴナ (Анна Иоанновна) に謁見します。ちなみに、日本人漂流民として比較的有名な大黒屋光太夫がエカチェリーナ2世と面会したのは、それからおよそ60年後の1791年のことでした。女帝は、ゴンザが見事なロシア語を話すのを見て驚嘆し、彼らを保護するよう命じました。同時に、彼らにロシア科学アカデミーでロシア語を学び、ロシア人子弟に日本語を教えることを命じます。ふたりは、科学アカデミー図書館の高官アンドレイ・ボグダーノフ (Андрей Богданов) のもとで熱心にロシア語を学びました。

1736年9月にソウザが亡くなります。その直後から、ゴンザはボグダーノフの指導のもと、『新スラヴ・日本語辞典』の編纂を始めます。ロシア語と日本語の辞典としては世界で初めての辞典でした。辞典が完成してから約1年後の1739年12月、ゴンザは21歳の若さで亡くなりました。科学アカデミーは、ふたりがロシアに滞在したことを記念して、ゴンザとソウザの肖像を描き、蝋製の像を造りました。ふたりの像は、ロシア科学アカデミー・ピョートル大帝記念人類民族博物館「クンストカメラ」 (Кунсткамера) に収められています。また、鹿児島県いちき串木野市の羽島崎神社には、彼が埋葬されたとされる墓石跡から取られた石が御霊として奉納されています。境内には彼の石像が立っています。

『新スラヴ・日本語辞典』の特徴

ここからは、ゴンザが作り上げた『新スラヴ・日本語辞典』の概要とその特徴について紹介します。

この辞書は、ゴンザの晩年の1736年9月から1738年10月にかけて編纂されました。収録語数はおよそ1万2,000語。例えば英語においては、上級者に必要とされる語彙数がおよそ8,000語とされていますから(注1)、この辞書が極めて豊富な語彙を収録していることが分かります。この膨大な単語数を、わずか2年のうちに収集・記述したことは驚くべきことです。総じて辞書の編纂には相当の時間がかかるものです。明治時代の国語学者である大槻文彦は、日本初の近代的国語辞典である『言海』を出版するまでに、20年近くの歳月を費やしました。『言海』は、約3万9,000語もの語彙を収録し、それぞれの見出し語の意味や語源を詳細に載せています。編纂にあたってゴンザがボグダーノフからの惜しみない手助けを受けていたのに対し、大槻文彦はほぼ独力で編纂しました。この点から、『言海』を、単純に『新スラヴ・日本語辞典』と比較することは不適切かもしれません。しかしそれでも、ほんの2年間でひとつの辞書を編纂し終えたゴンザの功績は並々ならぬものであると思います。

辞書の構成について注目すると、この辞書では、ページの左側にロシア語の見出し語が並び、右側にその語義がキリル文字表記の薩摩方言で記されています。幼くして船乗りとして育てられたゴンザは、日本語の文語の読み書きを学んだことはなかったのかもしれません。ですが、文語文ではなく薩摩方言で記述されたことで、この辞書は18世紀の薩摩方言の音韻・語彙を記録した貴重な資料となりました。

薩摩方言のキリル文字音写はかなり表音的で、ゴンザが自身の素朴な感覚にしたがって表記したことが分かります。例えば「モノサシ」(物差し)は моносашъ (monosash) と綴られ、語尾の「シ」の母音が無声化(発音されなくなること)しています。エの母音の表記も、当時の薩摩方言に存在した発音上の違いを反映し、日本語本来のエの母音はѣで綴り、ai, ae, oiが縮約して生じたエの母音は、еの字で綴る傾向が見られます。例えば、「アメ」(雨)の「メ」は、本来のエの母音なのでамѣと表記されています。一方、「メニチ」(毎日)では、マイが訛ってメとなったため、мѣничではなくменичと表記されています。

語義の説明には、苦心の跡が見られます。спочиваю「一緒に眠る」という単語は、「フトツィネチョル」(一つに寝て居る)と、「一緒に」の意味も漏らさず書き、ロシア語のニュアンスを丁寧に説明しようという意識が見て取れます。また、средоземнныи「陸地と陸地の間の」という一言では説明しづらそうな単語も、「ヂナカント」(地中の)と、自分の薩摩方言の語彙を自在に活用し、工夫して訳出しています。『新スラヴ・日本語辞典』の原本を判読し、その日本版刊行に携わった村山七郎氏は、「幼くして母国語圏から切り離されたにもかかわらず、ゴンザの付した訳語は驚くほど正確である」(村山七郎(日本版編)(1985: 14)『新スラヴ・日本語辞典』日本版 ナウカ株式会社)と評しています。

語義説明への努力に加えて、文法への意識があることも分かります。見出し語のロシア語のうち、動詞は基本的に1人称単数形「私が~する」-ю の形で統一されています。現代の露和辞典で動詞が不定形 -ть の形で掲載されているのと比較すると興味深いです。また、動詞からその名詞形をつくる派生接尾辞 -нïеが付いた名詞は、一貫して「(~スル)コト」と訳出されています。ゴンザは名詞化という概念も理解していたようです。

感想

『新スラヴ・日本語辞典』は、故郷から遠く離れた地で命からがら生き延びた日本の青年の手によって完成しました。自分の父親をはじめとする仲間たちを失い、帰れる見込みもないまま言葉が通じない異郷の地で暮らしていく、当時11歳だった少年にはあまりに過酷な運命です。サンクトペテルブルクのロシア人たちが親切に接してくれたとはいえ、ソウザ以外の同郷人がいない街での暮らしは寂しいものだったに違いありません。雪が降りしきる街を家の窓辺から眺めながら、故郷の薩摩の漁村を思い浮かべて郷愁に駆られることもあったでしょう。前提知識が全くないなかで、ロシア語という未知の言語と格闘し、それを身に付けていく過程は苦しかったに違いありません。他に参照できる露和辞典がないなか、ロシア語のニュアンスをうまく日本語で説明できず、進捗が滞ったこともしばしばあったのは想像に難くありません。自分が生きている間に辞書を完成できるのだろうか、まだまだ記述していない単語が残っているのに。そのような焦燥感を抱くこともあったかもしれません。過去のつらい出来事のトラウマや孤独感を抱えながらも、現地で生き延び、世界初の露和辞典を作り上げるという難事業を成し遂げたことに、私は畏敬の念を抱きます。

(注1)

一説では、言語能力を評価する際によく用いられるCEFR(セファール ヨーロッパ言語共通参照枠)という指標において、C1およびC2レベル(7段階中上から1番目と2番目のレベル)の学習者が持つ語彙数は約8,000語と推定されています。

参考:教育再生懇談会担当室(編)『英語教育関連資料』http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku_kondan/kaisai/dai3/2seku/2s-siryou4.pdf

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