ポップ・ミュージック歌詞対訳考 ~訳の現場から~

音楽をきっかけに海外の文化や言語に興味を持ったという方は多いのではないでしょうか。
かくいう私もその一人です。
好きが高じて洋楽の歌詞対訳の編集・校正に携わっていたことがあり、歌詞を訳す現場で感じた「言葉の変化」や「今」についてお話ししたいと思います。

対訳と訳詞って何が違うの?

日本盤CDのブックレット巻末には「対訳」として、訳者名が記載されています。
一方、歌番組のテロップで「訳詞」という表記を見かけたことはありませんか?
「対訳」と「訳詞」って、いったい何が違うのでしょう。

答えは「歌うことを目的にしているかどうか」。
つまり、訳詞=歌うための訳、対訳=読むため(意味を理解する)の訳、なのです。
分かりやすい例が「ドレミの歌」。
「ド」といえば、日本では甘くて美味しいあのスイーツのことですが、原詞では……?
(ご存じない方はぜひ検索してみてください)

ところで、昨今のK-POPでは韓国語・英語・日本語の3バージョン存在するのが当たり前になっています。
もちろん現地のファンを想っての神対応ではありますが、個人的には、「トンデモ訳」の回避にも一役買っているのではと睨んでいます。
かつて日本で流行った洋楽カバーの中には、原曲からかけ離れた日本独自の歌詞になってしまったものがあります(その場合は訳詞ではなく日本語詞とクレジットされています)。
当時は良くも悪くも「何でもあり」なカルチャーとして許容されたかもしれませんが、現代の感覚では肩をすくめたくなるようなクオリティのものも…ありました(遠い目)。
あらかじめ公式に3言語版を用意しておけば、楽曲のイメージを守ることもできますし、ひいてはアーティストの意思を尊重することにも繋がるのかもしれません。

一人称どうするか問題

歌詞を日本語に訳すときに最初に決めなければいけないこと、それが一人称。
物腰柔らかな印象の男性シンガー・ソングライターなら「僕」「ぼく」。
ケンカの絶えないお騒がせバンドなら「俺」か「オレ」が適していそうだな…とイメージに沿った一人称を探っていきます。
中でも悩みどころは新人たち。世に出る前のアーティストなので、あまり素性が知られていません。
デビュー作ではそつなく「私」で通していたけれど、いまや姉御肌の「アタシ」がピッタリ(笑)なんてことも。
アルバムを重ねるうちに和訳の中でキャラ変が起きている場合があるので、過去の歌詞対訳をよく見てみると発見があるかもしれませんよ。

最近、自らのジェンダー代名詞を表明する人たちが増えていることはご存じでしょうか?
そう、SNS等のプロフィールなどで見かけるhe/him、she/her、they/themです。
私自身、このムーブメントのおかげでジェンダー平等に対する認識を改めさせられました。
本人の希望する代名詞で呼ぶことが相手に対する礼儀だったのだと。
翻訳現場でも、今後は本人の見た目やキャラで勝手に決めつけたりせず、アーティスト本人自身の性自認に配慮した一人称を選択することが、求められていくようになるでしょう。

言葉は変わる

日々、新しい言葉が生まれるのと同時に、使われ方も年々変化しています。
たとえば「ヤバい」は、いつの間にか「イケてる」という褒め言葉としても使われるようになりました。

ポップ・ミュージックの中で最も言葉の進化の激しいジャンルが、ラップ/ヒップホップ。
ストリートで生まれたばかりのスラングや日本語にはない感覚を、どう訳せば読者に伝わるだろうかと、現場では推敲が重ねられています。
中でも印象的だった訳語の変遷が――「ディスる」でした。

語源となる「disrespect」は、もともとストリート界隈で90年代から使われていたスラング。
「けなす」「コケにする」などの訳を当てていても当初は問題ありませんでした。
しかし2000年代、「disrespect」は「dis」「diss」へと転じ、訳の手掛かりとなる「respect」の部分が失われます。
そこでCDブックレットでは工夫を凝らし、訳注を添えるようになりました。
たとえば「disる(=disrespect)」「ディスる(注:けなすの意)」のように。
当時の日本ではまだこの言葉やヒップホップ文化が浸透していなかったため、補足しなければ伝わらなかったのです。

転機が訪れたのは2007年。
あるバラエティ番組がきっかけで、ヒップホップ文化とともに「ディスる」という言葉が広く知れ渡りました。
テレビの影響力とSNS普及のおかげでしょうか、徐々に日本でも使われるようになり、現在では一般的にも意味が通じるようになりました。
今ではもう、訳注なんて必要ありません。

時を経て原語がそのまま日本語として根付いたのが上記の例ですが、逆に、訳語として使い勝手のいい言葉が新たに生まれる場合だってあります。
たとえば――「全集中」なんて、文字数に制約のある翻訳現場では重宝されそうな気がしませんか?

改めて「言葉は生き物」なんですよね。
翻訳の現場にいる者として、常日頃から言葉の変化に敏感でいなければ、と思った次第です。

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