実験小説の翻訳

実験小説と呼ばれるジャンルの本を読んだことがあるでしょうか。読む順番によってストーリーが変化するものや、全編が疑問文からなるもの、活字が重なり合って読めない部分があるものなど、実験小説には興味をそそられる作品がたくさんあります。今回はその中でも「文字に制約のある作品」を取り上げ、実験小説の翻訳について考えたいと思います。

まずはアメリカの作家、ウォルター・アビッシュによる『Alphabetical Africa』という作品の冒頭を見てみましょう。

“Ages ago, Alex, Allen and Alva arrived at Antibes, and Alva allowing all, allowing anyone, against Alex’s admonition, against Allen’s assertion: another African …”

何かにお気付きでしょうか。そうです。お察しの通り、使われている単語がすべて「a」から始まっています。この作品は、使用できる単語に制限を設けて書かれているのです。1章では「a」から始まる単語のみが使われ、2章では「a」と「b」から始まる単語のみが使われ…といった具合に徐々に使用できる単語の数が増えていき、26章までいくと、ついにすべての単語が使えるようになります。

次にご紹介するのは、カナダの小説家キャロル・シールズの短編『absence』です。リポグラムと呼ばれる特定の文字を使わずに書かれた文章になっており、ワープロのキーボードで1文字が壊れているという設定のもと、物語は進んでいきます。では、一体どの文字が入力できないのでしょうか。

“Both sense and grace eluded her, but hardest to bear was the fact that the broken key seemed to demand of her a parallel surrender, a correspondence of economy subtracted from the alphabet of her very self …”

今度は少し難しかったかもしれません。実はこの小説は、「i」という文字を一度も使うことなく書かれているのです。母音字の1つである「i」を使わずに作品を完成させるには、なかなか苦労したことと思います。

こうした制約のある作品を別の言語に翻訳するとしたら、どのような工夫が必要でしょうか。単純に直訳してしまっては、実験小説としての面白さがまるで台無しです。

1つめの作品『Alphabetical Africa』を日本語に翻訳する場合、日本語は単語ごとに区切って表記しないので、各文の最初の文字に制限を設けることになるでしょうか。また、アルファベットと日本語の仮名では数が異なります。原文にならって1章は「あ」から始まる文のみを、2章は「あ」と「い」から始まる文のみを…と続けていくと、50章必要になってしまいます。どうやら、章を分割し直すなど、作品の構成から考え直す必要がありそうです。

2つめの『absence』であれば、日本語でも特定の1文字が使用できないなどの設定が考えられると思います。仮に「い」を使わずに日本語に翻訳しようとすると、どうでしょうか。「~している」という進行形も、「~できない」といった否定形も使うことができません。実際に翻訳をするとなると、1文字使えないだけで、原文への忠実性と訳文の自然さとのバランスを保つことがとても難しくなることがわかります。

文字への制約を反映しながら翻訳することは不可能だ、と言いたくなるところですが、なんと実際に翻訳された例があるのです。原作はフランスの作家、ジョルジュ・ペレックによる『煙滅』という作品で、フランス語で最も頻繁に用いられるという「e」を一度も使わずに書かれています。ドイツ語、英語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、オランダ語の順で翻訳され、2010年には日本語版も発刊されました。

日本語をひらがなで表記したときに最も高い頻度であらわれる文字が「い」だということから、日本語訳を手掛けた塩塚秀一郎は「い段」の仮名とそれらを読みに含む漢語、数字、英字を一切使わずに全編を訳し切りました。翻訳にあたって苦労した点について、訳者あとがきで触れられていますので、少しご紹介します。

①不在の文字を喚起させる表現をどう翻訳するか?

「末端が水平な線分となった、完全には閉じられていない円形」
「三本指の手」

原文に登場するこれらの表現はそれぞれ、使われていない文字である「e」と「E」を見立てたものです。日本語訳では「い」と「イ」をかたどるものして、次のように置き換えられました。

「やや斜めの縦棒がふたつ並んだ図柄」
「刺(さす)股(また)」

読者に不在の文字を思い起こさせる、という原作者の意図を伝えることには成功したものの、原文とは全く異なるイメージになってしまっています。

②固有名詞をどう翻訳するか?

固有名詞を翻訳する際、一般的には発音をそのままカタカナで表記することが多いです。しかし、この方法で「い段」を含んでしまう場合には、別の単語に置き換えなければなりません。とりわけ、もとの固有名詞に特定の意味が込められている場合には、工夫が必要です。

例えば、この物語でキーとなる人物のファーストネームは「Aloysius」ですが、これをカタカナで表記すると「アロイシウス」となり「イ」を含んでしまいます。さらに、この名前は実在する名でありながら、「e」以外の母音をすべて含んでいるのです。そこで、日本語訳では「い」以外の母音を全部含むよう、「アウオーエン」に置き換えられました。

このように一筋縄ではいかない実験小説の翻訳ですが、作者の意図や原作のおもしろさをどこまで反映できるかは翻訳者、編集者の腕の見せ所です。翻訳者や訳す言語によって様々なバリエーションが生まれる可能性があり、とても興味深いと思いませんか。今回取り上げた“文字に制約のある作品”以外にも、様々な実験を試みた小説とその翻訳が出ていますので、気になった方はぜひ探してみてください。

(参考文献)

木原善彦(2017)『実験する小説たち 物語るとは別の仕方で』彩流社

藤井光(編)(2017)『文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち』フィルムアート社

塩塚秀一郎(2010)『煙滅』水声社

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