旅と言語

外国語を学んできて翻訳会社に入った身として、普段の仕事で外国語の知識が必要となるのは願ったりかなったりですが、中でも最も使う外国語のスキルは「読んで理解する」です。その次は「書いて説明する」スキルです。

「読んで理解する」スキルは、文字通り翻訳された文が正しく訳されているか原文と読み比べて理解し、間違っている個所を洗い出す作業に使用します。日々大量の文章に触れるので、知らぬ間にさまざまな分野で膨大な量の文章を目にしています。言語を学んでいる学生の方々も日々多くの文章を読んでいると思いますが、仕事で強制的に触れる文章量は圧倒的です。自然と読むスピードも上がれば理解のスピードも上がっていきます。

「書いて説明する」スキルは、例えば翻訳者への仕事の依頼や、仕事内容を説明するために使用することが多いですが、その他には、誤解釈された文の意味を説明したり、協力に対する感謝やお客様からのお褒めの言葉を伝えたり、ごくまれにクレームを言ったり、と多岐にわたります。翻訳者とのやり取りは日本語以外では英語で行います。簡潔に説明し、希望の回答や仕上がりを得るため工夫を凝らします。どうすればこの文章を正しく理解してもらえるか、何をどう間違ってしまったのか、だからどう直してほしいのか。英語で説明するのは一苦労ですが、母国語である日本語で説明する場合も逆に気を使います。相手はたとえ日本語がすばらしく理解できる外国人だったとしても、日本語ネイティブではないからです。何度も言い換えて説明することもあれば、ごくシンプルに指摘する方が正しい結果が得られると判断して、説明したくなることをあえてしないこともあります。

外国語を「聞く」能力と「話す」能力については、日々の仕事の中ではほとんど必要としません。だからかもしれませんが、イデア・インスティテュートの社員はコロナ禍以前は長い休暇を利用して海外旅行に出かける人が多かったように思います。海外旅行で最も必要になるのがこの二つの能力です。

海外旅行のだいご味は、その土地のおいしい食べ物を食べ、美しい景色や建物を見学し、文化に触れ、「非日常」を味わうことだと思うのですが、おそらく外国語を勉強していて一番旅行で楽しみなことは現地の人との交流だろうと思います。

どんなに素敵なホテルに泊まり、おいしいものを食べ、美しい夕日を観たとしても、たった一度の現地人との印象に残る会話や出来事があると、そのことがすべてを上書きしてしまうほどの刺激となって脳に残ります。たとえ完璧な会話ができなかったとしても、身振り手振りを交え、理解しあえた時の喜びは何にも代えがたい経験になります。現地語での会話であればなおさらです。

もう10年以上前のことになりますが、イタリアでミラノからヴェローナまでの電車に乗った時のことです。イタリアでは、少し旧式な列車は6席ずつをコンパートメントと呼ばれる部屋で仕切っていることがありますが、その時私と母が乗り込んだ列車もそうでした。コンパートメントには、銀色のスーツを着て黒いサングラスをかけた、まるでモデルのような若い男性が一人先に座っていました。荷物棚はその男性のものと思われるプラダとかグッチなどのハイブランドの大きい複数のショップバックで占領されていて、私と母の荷物は小さかったので、足元に置いておくことにしました。

次の駅で、大きなスーツケースを持った男性客が乗り込んできました。彼は荷物棚を一瞥し、あろうことか、棚の荷物を日本人の私たちのものと勘違いして、少しつっけんどんな感じで荷物をずらしてくれるよう言ってきました。「私たちの荷物じゃないですよ」とイタリア語で答えると彼は驚いて、サングラスの男性に目をやり、今度はそちらに言ってどけてもらいました。サングラスの男性は、イタリア語をなんとか理解したという印象で、言葉は発しませんでした。その後、後から来た男性客は、サングラスの男性がコンパートメントの外に出たすきに、こちらに向かって肩をすくめて手を少し広げてみせました。多分「まさか男性がこんなにブランドものばっかり買い物するとは思わないからさ、そうだろ?」みたいな意味かなと思うのですが、思わず「そうだよね」と心の中で同意しつつ笑顔を返しました。イタリア人がよく使うジェスチャーと表情を彼がしたことが、言葉が通じるもの同士の仲間意識を表しているようで私は少しうれしかったことを覚えています。旅先ではこんなどうでもいい出来事でもしっかり記憶に残ってしまうのです。

旅の楽しみ方は人それぞれだと思いますが、私はその国の言葉で会話ができる国を旅したい。行ってみたい国には、まずその国の言葉を少しは勉強してから行きたい、と思っています。

旅は少しぐらい不便で、現地の人しかわからないものが残っていた方がお互いを理解しようとする気持ちが生まれやすいのではないでしょうか。たまには、ひたすら観光を楽しむ「お上りさん」になるのもいいものですが。

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