白いパスポート

2017年8月、ローマで盗難にあった。
ナポリ2日、ローマ2日、フィレンツェ1日、ヴェネチア2日のイタリア旅行の真っ最中のことだった。

歴史も古く、世界遺産も多い超有名な観光都市だが、スリや盗難が多いことでもよく知られている。私自身以前に何度か訪れていてローマの地理には詳しくなっていたし、また海外で犯罪に巻き込まれた経験もなく、旅慣れている自分にそういうことは無縁だろうと思っていた。レストランで食事しているときも使い古したモスグリーンのバッグを向いの椅子に置いたままにしていたら他の観光客に注意されたが、そこまで心配しなくてもいいだろうくらいに思っていた。ローマ観光を終えてテルミニ駅(ローマの主要駅)出発のフィレンツェ行の高速鉄道に乗り込み、荷物は頭上の棚に置き、列車出発までの時間、一等車らしい快適なシートで小説を読みながらビールを空けていた。出発まで少し時間があったので財布と携帯電話をハーフパンツのポケットに入れてトイレに立った。二つ並んでいるトイレの片方に入ろうとしたらアジア系の小さな女の子が「そっちは今使っているよ」と教えてくれた。ちょっと場違いな感じの女の子だった。トイレを済ませて席に戻るまで1分もなかったと記憶している。

列車が発車してからもしばらく小説を読み続けていたが、なにか違和感を感じ、ふと上を見上げたらモスグリーンのバッグがなかった。どこかに滑ったかと見渡したがどこにもない。最初はまるで状況が分からず、同じ車両の乗客に自分のバッグを見なかったか聞いたが皆知らないという。そこで初めて「盗まれたか?」という考えが浮かんだ。ローマのテルミニ駅から次の停車駅までは約5分。私が席を立った隙に、あのアジア系の女の子とトイレに入っていた別の誰かが2人でバックを盗ってどこかに隠れ、次の駅で降りることは十分に可能だった。バッグには着替え、靴、ウォークマン、眼鏡、土産、そしてなによりパスポートが入っていた。一瞬混乱したが、幸い携帯電話と財布は手元にあったので、とりあえず落ち着いて対策を考えようと思った。

まずは車掌に事情を説明し、その後会社の上司に電話して帰国が遅れることを伝えた。旅行は中止、とりあえず帰国に専念することにした。日本領事館でパスポートをなんとかしてもらうしかないと思ったが、フィレンツェやヴェネチアに領事館があるとも思えず、ローマに戻ることにした。特急電車は高速でローマから遠ざかっていたが、車内からこの旅行でお世話になった旅行会社のローマ支社に連絡し車掌から事情を話してもらい、引き返したローマのテルミニ駅で旅行会社の人(日本語が堪能なイタリアの青年(デイビッド(仮名))に会ったときは心底安心した。それと同時に盗難にあった悔しさ、旅行を中止しなければいけない現実、旅慣れしていると思い込んでいた自分の甘さに落胆した。デイビッドは流石にこういう事態にどうしたらよいか心得ており、まずは私が無事でよかったと笑顔で言い、それに携帯電話とクレジットカードがあればちゃんと帰れるから大丈夫と私を安心させてくれた。彼は私の着替えやコンタクトケア用品の購入に付き合ってくれ、夕食を一緒にし、その日の宿も手配してくれた。終始明るい彼に私の気持ちは随分楽になった。

翌日もデイビッドに付き合ってもらい警察で被害届を出し、その後、顔写真を撮って日本領事館へ行き、帰国のためのパスポートを申請、次の日には「帰国のための渡航書」が手に入った。白いパスポートだった。彼がスムーズに手続きを進めてくれたおかげで一日ローマに長く滞在しただけでヴェネチアには予定通りに入ることができた。最後、テルミニ駅で私を見送ってくれる頃には私はすっかり気を取り直していた。

ヴェネチアのホテルのチェックインで白いパスポートを見せたとき、受付のおじさんは「盗難にあったのか?」と驚いた顔をしていた。私がうなずくと、怒りと悲しさが入り混じったような顔で “I’m so sorry…”と言って慰めてくれた。日本に帰るフライトの搭乗の際、白いパスポートを見せたときも乗務員は “Passport stolen?” とやはり悲しそうな、残念な顔をしてくれた。

 

今でも盗難にあった後にローマで買ったTシャツ等を見る度に盗まれたと分かったときの車内の風景、気持ちを思い出すが、それと同じくらいデイビッドやイタリアで関わった人達の温かさを思い出す。

余談だが海外旅行の盗難保険に入っていたので色々な手続きをしたら思わぬ金額が返って来て、結局私はフライト代含めて10万円くらいでイタリアを旅した計算になった。もちろんローマで盗難にあった心の痛みを考えれば保険を使う羽目にならない方が良いのだが。

白いパスポートは特別な思い出の品として今でも大事にしまってある。

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