アラビア語の元素名について

 筆者は大学でアラビア語を専攻していました。アラビア語の元素名についていくつか興味深く思われることがあるので、それについて書いてみようと思います。本題に入る前に、まずは中世イスラーム世界の化学とアラビア語起源の化学用語についてご紹介します。

アラビア語起源の化学用語

 中世イスラーム世界では様々な学問が花開きました。そのうちのひとつ、化学の研究も大いに発達しました。現在の化学工業でも欠かせない薬品である硫酸と硝酸は、イスラームの職人によって発見されたと考えられています。彼らは、ミョウバンを蒸留器に入れて加熱することで硫酸を、さらに硝石とミョウバンを蒸留することで硝酸を得ました。8世紀から9世紀初頭にかけてのイラクで活躍した錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーン(ジーベルとも呼ばれる)は、中世アラブの化学者のうちでも特に知られています。中世イスラーム世界で培われた化学の知見は、ヨーロッパの錬金術にも大きな影響を与え、それはやがて近代的な化学に発展していきました。そのため化学に関する言葉のなかには、アラビア語に由来するものがいくつかあります。例えば「アルカリ」(英:alkali)は、植物を焼いた後の灰を意味する القِلْي al-qily に由来します。「アルコール」(英:alcohol)は、al-kuḥl الكُحْل から来ています。ただし al-kuḥl は、お酒のことではなく、当時女性が目の周りに塗るための化粧品として使っていたアンチモン硫化物の粉を指しています。英語で「化学」を意味する chemistry も、アラビア語のالكِيمِيَاء al-kīmiyā’ に由来しますが、そのal-kīmiyā’自体も元をたどると古代ギリシア語の χυμεία (khumeíā)「合金製造術」の借用です。

アラビア語の元素名

 さて、中学・高校の化学の授業で、H, He, Li, Be, B, C…といった元素記号を「水兵リーベぼくの船」の覚え方で暗記した人も多いことでしょう。日本語の元素名は、大きく分けて、錫(すず)や鉛(なまり)のような和語の名前、水素、酸素、窒素、鉄、銅などのような漢語の名前と、ヘリウム、アルミニウム、ナトリウムなどのように外来語から借用した名前の3種類あることが分かります。
 アラビア語の元素名はどうでしょうか。例えば鉄حَدِيد  ḥadīd、銅 نُحَاس nuḥās、鉛 رَصَاص raṣāṣには、このようにアラビア語特有の名前があります。下に、そのような元素をリストアップしてみました。

表1:アラビア語特有の名前を持つ元素

 地球上では、2023年12月時点で118個もの元素が発見されています。このうち、アラビア語特有の名前を持つ元素は、9個だけでした。やはり金、銀、銅、鉄は古くから知られている元素であるだけに、それら特有の名前があるようです。この地域の天然資源といえば石油というイメージが強いですが、現在のサウジアラビア王国の領域は、古代においては金・銀・銅などの鉱物資源の産地として知られていました。最初期の鉱山は、古代イスラエル王国のダビデ王(在位:紀元前1000~961年)とソロモン王(在位:紀元前961~922年)の時代に開発が行われていたといわれています。
 より身近な道具に絡めて言及すると、「硫黄」 كِبْرِيت は、アラビア語だと火をつけるためのマッチのこともこのように呼びます。マッチ棒の頭には可燃材として硫黄が使われていますので、このように呼ぶのももっともです。日本語では、マッチに「燐寸」という漢字を宛てることがあります。日本語では、棒の頭についている硫黄よりも、箱の側面に塗られているリンの方に注目しているわけです。両言語で着眼点が違っていて面白いなと思います。鉛筆は、アラビア語では قلم رصاص qalam raṣāṣ 「鉛のペン」と呼びます。日本語の「鉛筆」と成り立ちがまったく同じですね。もっとも現在の鉛筆の芯は、炭素からなる黒鉛でできており、金属の鉛は含んでいません。ちなみに、身近な道具ではありませんが、銃弾や弾丸のこともアラビア語で رصاص と呼びます。
 一方、近代に入って発見された元素の名前は、すべてヨーロッパの言語からの借用語です。たとえば酸素أُكْسِجِين  ’uksijīn と炭素 كَرْبُون karbūn と水素 هَيْدْرُوجِين haidrojīn は、それぞれフランス語のoxygène, carbone, hydrogèneを借用したものです。窒素نِيتْرُوجِين  nitrojīnは、英語のnitrogenの借用です。原子番号1から10番までの元素のアラビア語、英語名称を見比べてみましょう。

表2:元素の日本語・アラビア語・英語名称対照(原子番号1–10番)

 アラビア語名称は、英語名称とよく似ていることが分かります。先ほど、「酸素」「炭素」「水素」の名称はフランス語からの借用と書きましたが、そのフランス語名称が英語名称ともよく似ているため、英語から見比べても結局似ていますね。個人的には、「水素」「炭素」「窒素」「酸素」のように、様々な化合物に含まれる元素くらいは、アラビア語特有の名称がほしいなと思ってしまいます。言語によっては、これらの元素名に独自の呼び名を与えている言語もあります。たとえば「酸素」は、中国語では「氧」yǎng、ドイツ語ではSauerstoff、ロシア語ではкислоро́д (kisloród) といいます。アラビア語に独自の言い方がないのは、いち学習者として少し物足りない気もします。ただ、英語ないしフランス語と似ているということは、それらの言語の知識があればアラビア語の元素名も覚えやすくなるので、そこは利点でもあります。

参考文献:

論文

小村幸二郎 (1968) 「サウジアラビアの地質および鉱床の概要(3)」、日本鉱山地質学会(現:資源地質学会)『鉱山地質』18巻91号 p292-309より
左巻健男 (2019) 『中学生にもわかる化学史』ちくま新書1389. 筑摩書房

 

Webサイト

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