漢字が誘う想像力

かなり昔のことですが、何の気なくTVをつけたらドラマが放送されていて、どうやら話は終わりに差し掛かっているようでした。画面には落胆した俳優が去っていく姿が映り、そこに渋い声のナレーションが流れました。

「人に夢と書いて儚(はかな)いと読む。」

全編通して見たわけではないので話の筋はわからないのですが、おそらくこの登場人物は何か叶えたい夢があったのに希望通りにならなかったのではないかと感じました。そしてこのナレーションを聞いて私は思ったのです。人は夢を見る、そして夢は思う通りに叶わないことがあるということを「儚」という漢字自体が表していると。
ところが、後に漢和辞典で「儚」を引いてみたところ、思っていたような説明は見つけられませんでした。「暗い。迷って、わけがわからないさま」を表し、「はかな(い)」という読みや意味は「儚」が日本語で使われるようになってから加わったのだそうです。1 考え直してみれば、当然ながら人が夢見たことは叶う場合もあるし、それ以前に「儚」の字形が「夢が叶うかどうか」までは表していないように思えてきて、どうやら自分は「はかな(い)」という読みとTVドラマのイメージに引っ張られて漢字を解釈していたことに思い到ったのでした。
想定とは違う説明を見つけて少しがっかりしたのですが、同時に思ったのは、漢字の偏(へん)や旁(つくり)などのパーツが組み合わさってなぜその意味になるのか、理由が気になってしまうのも自然なことではないかということでした(例えば、視覚的な事柄を表す「闇」という漢字の中に聴覚的な意味を持つ「音」という文字が含まれていることに気が付くと、なぜなのか知りたくなってきませんか?)。初め誰かが理屈を考えて後に人口に膾炙した漢字の成り立ちのなかには、たとえ学術的には誤っていても秀逸なものもありますので、正しい説明とは区別した上でなら、それを楽しむのも悪くないのではないかと個人的には考えています。

漢字の解釈から生まれたといわれる、ある妖怪の話をしましょう。
妖怪の名はクダンと言い、人面牛身の怪物で、生まれて間もなく予言をして死んでしまう、そして予言は必ず当たるという伝承があるそうです。

妖怪クダン
(本イラストはhttps://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_827/の講義資料から使用させていただきました。)

予言の内容は主に疫病の流行や天災で、第二次世界大戦の終結や関東大震災を予言したこともあったといいます。新型コロナウィルスの流行が始まっていつの間にか知られるようになったアマビエと同じく、「予言獣」と呼ばれる種類の妖怪です(アマビエは疫病退散にご利益があるとして有名になりましたが、予言獣と言われています)2

さて、クダンはどの漢字と関係があるでしょうか?答えは「件」。現在は「事件」や「条件」などの熟語で使われることが多い字ですが、1字で「くだん」と読むことができます。漢字を分解すると人偏に牛ですね。つまり、人と牛が合わさったもの=人面牛身の怪物、というわけです。

妖怪クダンは早くも文政時代(1820年代)に出現していたという記録が残っているそうです。またその頃、証文(今でいう契約書)の結び文句「よって件(くだん)の如(ごと)し」(前記記載の通りである)に使われている「件(くだん)」は、妖怪クダンに由来するという話があったそうです。証文に書かれている内容はクダンの予言のように正しい、ということなのでしょうか。また、この妖怪が文政時代に現れたのは、証文が当時の社会で重要な意味を持つようになったことが背景にあると指摘する研究もあります 3。証文が重要だからこそ、その中で使用されている文字から想像された妖怪が世間に広まった、ということなのでしょう。
なお補足ですが、小説家の内田百閒はクダンをモチーフとしてその名も「件」という物語を創作しました。これまでの話を踏まえるとより楽しめると思いますので、よろしければ併せてご一読ください。

漢字はアルファベットと異なって字形・字音・字義が一体となっているため、人の想像力を大いに喚起しますが、とりわけクダン(件)は噂として世の中を駆け巡ったスケールの大きな話と言えそうです。それにしても妖怪の話をしていると、ところでクダンは実在するのでしょうか、という声が聞こえてきそうです。なにしろ妖怪に関することですから、信じるか信じないかはあなた次第です、というどこかで聞いた文句を借りて回答としたいと思います。

参考にしたサイト
1: https://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0293/

2: https://kadobun.jp/feature/readings/4hlpdojjrs4k.html

3: https://ocw.u-tokyo.ac.jp/lecture_827/

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