私は2024年の5月からノルウェー語の勉強をしている。勉強といっても、1日3分ほど語学学習アプリを触っているだけなので、1年以上経っても全く話せるようにはなっていない。それでも、挨拶や自己紹介などの簡単なフレーズに加えて、冠詞・定冠詞、単数形・複数形、数、否定語など普段の編集業務に役立つ知識を徐々に身に着けることができている。ノルウェーに移住する計画があるわけでも、ノルウェー人の友人がいるわけでもないので、気負いせずのんびりと勉強を続けている。
私がノルウェー語を勉強し始めたきっかけは、SOMPO美術館で開催されていた、北欧の絵画をテーマにした展覧会に行ったことだった。テオドール・キッテルセンの絵画にとても惹きつけられた。キッテルセンは19世紀後半のノルウェーの画家で、ノルウェー各地の民間伝承をモチーフにした作品を多く描いた。
彼の作品の中でも、とある1枚の絵に心を奪われた。暖炉の前に座りこむ大きな毛むくじゃらの何かと、それに向き合う女の人が描かれている絵だ。北欧の暗さと同時に火のあたたかさを感じる絵だと思ったが、作品名が「トロルのシラミ取りをする姫」だと知って仰天した。女の人は姫で、“毛むくじゃらの何か”はトロル。そしてなんと、姫は眠っているトロルのシラミを取っているというのだ。トロルといえば深い森にすむ恐ろしい生き物だと思っていた私は、「こんなに優しそうな毛むくじゃらがトロルなの!?この人はトロルに触っても平気なの!?シラミってトロルにも寄生するの!?」と驚いてしまった。作品名を知ってからもう一度絵を見ると、姫の指先の繊細な動きやトロルの穏やかな寝息まで感じられるような気がした。
「キッテルセン」と検索すれば分かる通り、彼は生涯でたくさんのトロルを描いている。その多くは見る人に恐ろしい印象を与えるものだ。ノルウェーの厳しい自然を具現化したようなトロルたちからは、得体の知れない寒々しさを感じる。それも彼の作品の魅力だ。一方で、この「トロルのシラミ取りをする姫」はあたたかな印象が強く、姫におとなしく世話を焼かれているトロルからはなんだか可愛らしささえ感じる気がする。この姫とトロルの間には信頼関係があるようにも思える。たった1枚の絵から物語の想像がふくらむ。
トロルと姫に加えて印象深いのは、暖炉だ。沖縄の近くで生まれた私にとって、“暖炉”そのものがファンタジーの世界の存在である。島の冬は寒い。ノルウェーの冬とは比べものにならないだろうが、常夏だと思ったら大間違いだ。最低気温が1桁になることは真冬でも滅多にないものの、家の壁が薄く暖房器具もあまり使わないため、特に室内は本土の人が想像する以上に寒く感じるのだ。だから、火のあたたかさを感じるこの絵の世界観に酷く憧れる。部屋に暖炉があったらどんなにいいだろう。あの恐ろしいトロルがおとなしく座っているのだから、きっとものすごく居心地がよいのだ。ぱちぱちと薪の燃える部屋で、編み物をしたり本を読んだりして過ごす夜を想像してみる。ときどき、窓の外で白い雪が降っているのを眺める。現実の私は編み物なんてできないのだけど、想像するだけでなんだかすごくいい気分になる。私はこの暖炉に一番惹かれたのかもしれない。
この絵はノルウェーの首都オスロにある国立美術館に所蔵されていて、ホームページでも見ることができる。この美術館は180年以上の歴史を持ち、ムンクの「叫び」を所蔵していることで知られる。SOMPO美術館の展覧会でも多くの所蔵作品が展示されていたが、それらの作品をノルウェーで見るとまた違った印象を受けるだろう。姫やトロルが生まれた国にいつか行ってみたい。そして、本物の暖炉の火も見てみたい。その日までに、ノルウェー語と編み物を練習しておこうと思う。
トロルのシラミ取りをする姫:
Theodor Kittelsen, The Princess picking Lice from the Troll – Nasjonalmuseet – Collection
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