翻訳という行為

翻訳される前の「原典」と翻訳された後の「翻訳物」を比べた場合、「原典」の方の価値がより重いことに異論はないでしょう。例えば外国文学の研究者は必ず原典にあたるでしょうし、「ハリウッド映画を字幕なしのオリジナル音声で観たい」と考えたことがある人は少なくないと思います。「原典」はより格上に置かれ、尊敬や憧憬の対象になります。少なくとも「翻訳物」よりはその機会が多い。「翻訳物」はこのとき、贋造物とまでは言わないまでも代替物と見なされています。

ということは、翻訳という行為は代替物――つまり「本物ではないもの」――を作り出す行為に過ぎないのでしょうか。

もちろんそうではありません。ある条件が与えられている場合に限り、「翻訳物」は代替物としてではなく、それ自体に固有の価値があるものとして存在することができます。

一昨年、東京とロンドンでミュージカル「レ・ミゼラブル」を観劇する機会に恵まれました。東京は日本語翻訳版、ロンドンはオリジナルの英語版です。英語版の方が優れていたことは言うに及ばず、台詞と楽曲の調和、俳優の芝居、歌唱力、どれをとってもロンドンキャストの方が洗練されていました(日本キャストの皆さんも大変素晴らしかったのですが、相手が相手だと思ってどうかご海容ください。)。

しかしそれでもなお、私は日本語翻訳版「レ・ミゼラブル」の方により大きな重みを感じずにはいられません。畏敬の念すら覚えます。なぜならば、「あれを全編日本語に翻訳した」という巨大な仕事が積み重なっているからです。どれほどの苦労があったか、察するに余りあります。そんな巨大な仕事が、日本語翻訳版「レ・ミゼラブル」には積み足されているのです。

日本人は上代より大陸文化を、幕末期から明治にかけては西洋文化を、敗戦後はアメリカ文化を必死に手繰り寄せてきました。この「異国への憧憬が長ずるあまり、自国の言語に(半ば強引に)翻訳してしまう」という営みは、翻訳という行為に崇高なものを感じ取ることができる心性によって下支えされています。そして、翻訳という行為に崇高なものを感じ取ることができる限りにおいて、「翻訳物」は代替物としてではなく、「原典」に重みを積み足したものとしての固有の価値を持ち得るのではないでしょうか。

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