旅には目的だけでなく、何かしらの理由があるでしょう。その場所を訪れるべき理由が。昨年の夏に初めて訪れたフランスで、私にはある目的がありました。それは、エトルタ(Étretat)という小さな村にある「断崖絶壁」の景勝地を訪れること。この旅行で絶対に外せないところでした。エトルタはフランス北西部のノルマンディー地方に位置し、パリからも日帰りで訪れることができます。電車に2時間揺られたのち、バスに乗って1時間ほど田舎道に耐える必要がありますが…。

【旅の出発点、サン=ラザール(Saint-Lazare)駅。モネの連作やマネの《鉄道》でも描かれた、古くからあるターミナル駅で、フランス北西部やノルマンディー地方へと線路を伸ばしています。】
数ある名所を差し置いてでも、この地を旅の目的地に選んだのには色々と訳がありました。一つ目は列車旅ができること。その理由を突き詰めれば、「ローカルになりきること」と「小さな冒険」の2つに行きつきます。夏休みの帰省客に混じって電光掲示板でプラットフォームを確認し、急ぎ足で改札を通り抜けてみる。座席が見つからず通路を往復してみたり、マダムに恐る恐る尋ねてみたり。見知らぬ場所を訪れると、日常とはかけ離れた地でドキドキを感じながら、その地の日常を冒険してみたくなるものです。

【小麦畑と謎の麦わらの塊。麦稈(ばっかん)ロール(balles de foin)と呼ばれるそう。車窓から眺められるのんびりとした景色も魅力的です。】
そして二つ目は、芸術家たちをも魅了したエトルタの崖の絶景。その崖は絵画の題材としても長く親しまれていて、モネやクールベの描いた崖はパリ市内のオルセー美術館でも見ることができます。しかし、せっかくフランスまでやって来たのなら、美術館から足を延ばして、実物をこの目で見てみたいと思うもの。バスを降りてストリートマーケットやレンガ造りの建物の間を歩いていくと、その壮大な景色はすぐ目の前に現れます。

【右手には教会の建つ崖が、左手にはアーチ岩を携えた崖が姿を見せます。】
波が削り出した白亜の崖。貫禄と畏怖を感じさせるその姿は、太古からこの地にそびえ、時の移ろいを見守ってきたかのように思えます。私はアーチのある方に登り、夏の暖かく爽やかな風を受けながら、これまで見たことのない絶景を存分に味わいました。時々、ここから落ちたらどうなるだろう、と雑念に邪魔をされながら…。

【文字通りの断崖絶壁。崖に登ると、別のアーチが顔を見せます。】
ですが、この崖を一目見てみたかった最大の理由は他にありました。それは、シェイクスピアによる戯曲、『リア王』の第4幕6場。この場面の簡単なあらすじはこうです。周囲の狂気と裏切りによって目玉をくり抜かれ、全盲となった老人グロスターは、“目のくらむほど高い”ドーバー海峡(イギリス)の白い崖から身投げしようと、“見ず知らずの乞食”エドガーに助けを求めます。老人は自身の感覚とエドガーの言葉との間にある隔たりに疑念を抱きつつも彼を信じ、“崖”から身を投げます。しかし、実際は崖とは程遠い、ただの平地に倒れ込んだだけだったのです。
この第4幕6場は、悲哀に満ちたグロスターを通して『リア王』の核が映し出される重要な場面です。しかし、初めて読んだときは、私もエドガーの言葉巧みな台詞にただただ騙されるばかりでした。崖の上を吹き荒れる風と真下に広がる深い海。その荒涼とした情景全てが目に浮かび、心に焼きついたのです。それからというもの、白い崖に不思議な憧憬を抱くようになりました。

【モネの《エトルタの荒海》(1868–1869年 オルセー美術館蔵)。】
『リア王』を読んでから心の片隅にずっと残っていた「白い崖」。今回の旅は、むしろこの「白い崖」に導かれたと言ってもいいかもしれません。しかし、だったらなぜ『リア王』の舞台であるイギリスの白い崖を訪れなかったのか…。そう不思議に思われることでしょう。その理由は単純です。それは、パスポートの再発行がギリギリすぎて、ETA(イギリスへ入国する際に必須となる電子の渡航認証)が取得できない可能性があったから。2025年より始まったETAによって、イギリスへの聖地巡礼旅は惜しくも諦めることとなったのです。
ある意味では、その埋め合わせとして訪れたフランスの白い崖。と言うと少々語弊がありますが、崖の上で地平線を望みながら、その先にある白い崖に思いを馳せたことは認めなければなりません。私をこの場所へと導いたのは、必ずしも前向きな理由だけではありませんでした。しかし、その理由がなければ、エトルタの崖を訪れることもなかったのです。その場所が心に描いた「白い崖」とは対照的であることも、温かく穏やかで、少し楽観的な雰囲気を帯びていることも知ることはなかったでしょう。そんな訪れるべくして訪れたエトルタの白い崖は、「フランスの白い崖」として私の心の中にしっかりと刻み込まれています。
最後まで記事をご覧いただき、ありがとうございます。
株式会社イデア・インスティテュートでは、世界各国語(80カ国語以上)の翻訳、編集を中心に
企画・デザイン、通訳等の業務を行っています。
翻訳のご依頼、お問わせはフォームよりお願いいたします。
お急ぎの場合は03-3446-8660までご連絡ください。



