むかしむかしあるところに・・・ 直訳と意訳の向こう側

「むかしむかしあるところに・・・」
絵本や物語の冒頭で登場するお決まりのこのフレーズを見ると、必ず思い出すやりとりがあります。

フランス系企業に勤務していたときのこと。
本社から世界各国の支社に向けて、各々の国で使用する印刷物用に文章の翻訳を依頼されることがしばしばありました。
今回の依頼は、販促用パネルに使用するフランス語の日本語訳。
イメージは、プリンセスが登場するおとぎ話?
お姫様のようなドレス姿の女の子の横に、”Il était une fois …”(英語で言う”Once upon a time …”)の1文がひらりと舞っています。
この文章を、物語のはじまりのあれですね、と捉えた私は、迷わず「むかしむかしあるところに・・・」と訳を付け、本社へ提出する前にフランス人の上司に見せました。

すると、日本語の読み書きに少々自信がある上司が一言
「ちがう、これは『昔のあるとき』でしょう。」
そう言うと、その場で直しを入れようとしました。

私「そのまま翻訳すればそんな感じですが、この場面では意味が通じません。」
上司「でもどうして『むかし』が2回?」
私「日本語では、物語のはじめにはこの表現を使うんです。」
上司「どうして『むかし』はひらがな?」
私「絵本のイメージなので、子ども向けのやわらかい言葉にしたいからです。」

日本人としてここはどうしてもゆずれない。
あらゆる説明を試みますが、話がかみ合いません。

困り果てたところに、日本人の同僚たちが参戦してきました。
「『昔のあるとき』なんていう言い方はしないよね。」
「『むかしむかし』は決まり文句だよね。」
援軍を得た私は、無事に「むかしむかしあるところに・・・」の表現で上司の承認を得ることができたのでした。

このときに初めて、「翻訳はただそのまま訳せばいいものではない」という意味を実感し、腑に落ちたことを覚えています。

 

いわゆる「直訳」か「意訳」かの問題は、翻訳における永遠のテーマとも言われるようです。
翻訳の基本は、原文に忠実に訳すこと。
一方で、意訳が必要とされる場面では、読み手に寄り添うように訳すことが大切で、原文に忠実ではなくても、その言語として自然になっていることが優先されます。

その後、イデアで翻訳サービスに携わるようになりましたが、イデアではマニュアルの翻訳を手掛けることも多く、この場合には、過不足がない、原文に忠実な翻訳が求められます。
私自身は、今度は複数の言語の翻訳者に翻訳を依頼する立場となり、翻訳者の方々から「この表現は自国語では一般的ではない。どうしても翻訳したいなら〇〇にすべき。」などのご意見をいただくことがあります。

以前、英語から複数の言語への翻訳において、印象深い意見がありました。
”the Americas”(アメリカ大陸)の解釈について、ある言語では、「”America”の複数形は存在しない、このような場合は”North and South America”と言う」とのこと。
それならばこの言語は”North and South America”に対応する訳にすればよい、としたいところですが、そう簡単な話でもありません。
”North and South America”とすると中米が含まれないため、原文での”the Americas”は北アメリカ・南アメリカ(大陸)のみを想定しているのか、それとも中米も含むのか、といった点も考慮する必要があるのです。
お客様のご意向も確認した結果、この件では、「今回の”the Americas”は北アメリカ・南アメリカ(大陸)に限定されないため、具体的な地域を列挙する必要がある」という判断になりました。
「直訳」か「意訳」かの域を超えて、「自国語には存在しない表現」を適切な表現に置きかえるという場面があること、そして、原文が意図することを正確に読み取ることの重要性を再認識した出来事でした。

 

翻訳の過程では、「翻訳者としてこれだけはゆずれない」としてご意見をいただくこともあります。
日々の業務では、ともすると原文側の考えに偏りがちですが、翻訳者の方々が意見をしてくださるときの気持ちは、私があの「むかしむかしあるところに」論争で「日本人としてどうしてもゆずれない」と感じたときと同じものかもしれない、そう考えると、身の引き締まる思いがします。

原文の側では、背景や意図しているものが正確に訳出されているか。
翻訳する側では、原文の意図をくみ取りながら、いかに自国語として適切な表現にするか。
それぞれ優先されることは異なりますが、翻訳サービスに携わる上で、どちらの視点も持ってバランスよく全体を俯瞰する、という本質の部分を忘れないようにしたいと思います。

最後まで記事をご覧いただき、ありがとうございます。

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