タングルウッド音楽祭の思い出―日常を彩る音楽

10年ほど前、アメリカ マサチューセッツ州郊外のレノックスという街でタングルウッド音楽祭の演奏を聴いた。夏の緑が美しい季節になると思い出す、家族との思い出である。

タングルウッド音楽祭は、ボストン交響楽団が1937年に野外音楽祭を始めたのがはじまりで、今では毎年6-9月にクラシック、ジャズ、ミュージカル、ポップスなど多彩なジャンルの音楽がレノックスの街に響きわたる。
タングルウッド音楽祭といえば、当時14歳のバイオリニスト五嶋みどりさんが、レナード・バーンスタイン指揮のもと演奏中に二度弦が切れたハプニングにもかかわらず、演奏を完遂した「タングルウッドの奇跡」は有名なエピソードである。ハプニングが起きた際の五嶋さんの冷静な判断と、楽団員と楽器を交換し、演奏を止めることなく難局を乗り超えたチームワーク、バーンスタインの指揮する手を一瞬緩める機転と優しさなど、国籍・年齢・立場を超えたプロフェッショナル精神が生んだ奇跡は、アメリカの小学校の教科書に載るほどである。

10年ほど前、姉がニューヨーク近郊に駐在していたおりに友人たちとタングルウッド音楽祭へ行き、世界的に著名な音楽家の演奏もさることながら、ステージ前の広場でリラックスしながら音楽の世界に浸る経験はなかなかできないと、帰任する前年にニューヨークから車で3時間ほどかけて家族を連れて行ってくれた。
マサチューセッツ州の夏は日が暮れるのが遅く、夕方の明るい時間帯から人が集まり始める。ステージの外に広がる青い芝生の上に敷物を敷き、心地よい夕暮れ時の風を感じながら持参した食事とワインでピクニックをし、演奏が始まるまでのゆったりとした時間を愉しんだ。
まわりを見渡せば、テーブルにカトラリーとワイングラスをセットして本格的なピクニックの準備に余念のない家族、長椅子の隣にサイドテーブルを置き、ランプと一輪差しにお花をセットしてお酒を嗜みながら音楽に浸る老婦人など、年に1回の夏の音楽祭を待ち望んだ現地の人々が家族や仲間たちと自然のなかでゆったりと音楽を愉しむ姿が印象に残った。わたしたち家族が到着した日に聴いた演目はボストン交響楽団とピアニストとの共演で、演奏が素晴らしかったことはもちろんのこと、音楽を生活の一部として受け入れ、豊かな生活を営む人々の姿が私の心に深く刻まれた。

この夏、長野県松本市を旅したおりに松本駅の構内で心地良いピアノの音色を聴いた。駅構内のグランドピアノはだれでも自由に演奏することができる。
駅のバックに雄大な日本アルプスの姿を見たとき、あぁこの街はレノックスの街に似ていると感じ、タングルウッド音楽祭の思い出が一気に蘇った。
松本市は日本アルプスに囲まれ適度な湿度が楽器の製造に適していることから、楽器製造業が盛んである。昭和58年には松本で製造されたエレキギターが生産高世界一を記録した。
松本市街を歩いていると盛夏でも日本アルプスから吹く心地よい風を時おり感じ、いたるところに井戸があり、地元の市民だけでなく観光客も日本アルプスの美味しい湧き水をいただくことができる。

そんな自然豊かな松本市で毎夏開催される音楽祭が「サイトウ・キネン・フェスティバル」である。偉大な音楽家であり教育者だった恩師 斎藤秀雄の名を冠し、指揮者の小澤征爾さんが1992年に創立した音楽祭である。2015年に「セイジ・オザワ松本フェスティバル(OMF)」として、小澤さんのもとに世界中から著名な音楽家が結集し、毎夏サイトウ・キネン・オーケストラを中心にオペラやコンサートなど多彩な演目が披露される。

そんな小澤さんにとって「タングルウッド音楽祭」は切っても切れない関係にある。
小澤さんは24歳でフランスの国際指揮者コンクールで優勝し、その後タングルウッドで実力が認められ、音楽祭のあいだ聴衆の前で毎週、定期演奏会を指揮する権利を得た。その後30年間務めたボストン交響楽団の音楽監督を退任した後も、タングルウッド音楽祭を毎年楽しみに訪れていたそうである。

昨年2024年に小澤さんが逝去されたことは非常に悔やまれる出来事であった。しかし、小澤征爾音楽塾による教育プログラムの公演では、若い音楽家の教育のみならず、数多くの小中学生が生の音楽に触れることを大切にする音楽祭の理念が継承されている。

タングルウッド音楽祭の会場には「セイジ・オザワホール」の名を冠したステージがあり、ショップで購入した小澤さんが指揮をしたラヴェル作曲の「ボレロ」を聴くと、小澤さんの音楽家、教育者としての功績に深い敬意を感じると同時に、大変勇気づけられる。

松本駅で美しいピアノの音色を聴いて、有名な音楽家による演奏でなくとも自然のなかで日常的に音楽を愉しむことは何よりも心の栄養になるとあらためて感じると同時に、日本人にも音楽を身近に感じてほしいと病床に伏せながらも熱心に音楽活動に打ち込まれた小澤さんの音楽に対する熱い思いが今も息づいていると感じた瞬間だった。

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